朝、葬儀に出勤。役僧(鉢)。
昼、満中陰。位牌開眼。魂の話をする。
その後、ジムへ。
魂の話をするときはいつも悩みます。誰にでも見れるものではないですから(僕も見れませんよ、念の為)。でも、ずぅっとこの仕事をさせてもらっていると、確かに魂らしきものを感じることがよくあるのも事実です。だから、その体験をそのまま伝えることが多いです。理屈を並べて存在論を語るよりも、感じたままの経験を伝える方がよっぽど布教活動にふさわしいと思い、そのようにしています。
ただ、あまりにも魂の話に深入りするのは避けるようにしています。だってどうしてもオカルトっぽい話に入っていかざるを得ないでしょ。テレビで見た霊脳者はこう言っていたとか、私のお墓には私はいないのだとか、魂が入ったままの位牌を焼いたらおばあちゃんがおかしくなったとか。そんな話は聞く方も話す方も面白いかもしれませんが、あまり人生において建設的な話にはなりそうにありません。そんなことよりも、位牌に向かってちゃんと毎日手を合わせてたらそのうちあなたも感じることができますよという話で、毎日ちょっとずつご先祖様と向き合っていくように勧める方が宗教活動上も健康的です。
魂が汚れているとか脅かしてお金をとったり、不安にさせて寄付させたり、そういうやり方は僕の好みではありません。自分たちに不幸があると嫌だからやるとかやらないとかいう自分本位の基準ではなく、ご先祖様は満足されているのかどうかという基準で考えてみることも大事だと思います。ご先祖様がここにおられると素直に思えたなら、確かにあなたは魂の存在を感じるでしょう。いつも自分たちの行動を見てくださっていると思えるのなら、自分たちがどう生活すればご先祖様によろこんでもらえるか(「護ってくださる」とはこのことです)と考えを巡らせるのです。そうすれば、魂があるのかないのかなんていう問題はすでにどうでもよくなってきます。
実際のところ、お坊さんが数分間の儀式を行うだけで位牌に魂が入るとは考えにくいものです。僕はいつも、「お坊さんはスイッチを入れるだけです。立派な位牌になるのかそうでないのかはこの後の皆さんの日ごろの供養次第ですよ」という話をします。主役はお坊さんではないですからね。先祖に恥じない生き方を自分で考えて、実践して、それが供養につながっていくわけです。それで結果的に一族が幸せになっていくのです。これが正しい宗教プロセスです。
仏教を生活に活かすとはこういうことなんですね。う〜ん、いい話になった。
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