2009年5月6日水曜日

個人の生き方と家族の関わり方

5/5(火曜日)


朝 月参り2件、満中陰


昼 ジム


夕 家庭教師


 またちょっと空いてしまったジム通いを再開。フルコースでへとへと。家庭教師は前回の続きで化学と英語。


 夜、住職と「個人の生き方と家族の関わり方」について議論になりました。住職としては、子供にせよ大人にせよ、個人の人生を決定づけるのは自分自身であるべきだという考えです。自分の意見を(嫌がっているのに)押し付けて他人の人生を変えてしまうのはよくない、と。また、困っている人の話を聞いていろいろアドバイスをするときも、良い方向に向かって欲しいとは思っても、その人にとっては他人である自分の意見を押し付けるべきではないという考え方です。


 僕の意見も大筋では同じですが、それは赤の他人に対してであり、かつ自分が一般人(在家)であるときに望まれる生き方であって、自分の子供や家族に対してそんな関わり方でいいのか、また出家としてそういう立場で良いのかという点で疑問がありました。


 僕自身、結婚もしておらず子育てについて云々するのは非常におこがましいということは重々承知の上で述べますが、子育てはやはり親の責任事項だと思います。子供が自分がやりたいように育てて(放任して)うまくいくのは理想です。でも、子供の低い目線では見えていない物でさえ、見えている(べき)者が大人ですから、子供がやってはいけないことをやりそうな時、またやるべき時にやらないでいる時など、親は大人として積極的に子供の人生に介入すべきだと思うのです。それを放ったらかしにしてしまうのが育児放棄であり、また、何でもかんでも悪いことは全部学校の先生の責任に転嫁してしまうバカ親になるのです。オレは自由に育ててるのに学校の先生が変なことを吹き込むから息子がグレたんだとか、お金を払っているんだから保育園でしっかりしつけてよとか。大人がとる態度ではないことは明らかです(大人が「大人」であるための努力が必要ということでもあります)。


 相手が子供でなくても、家族の一員であれば、ある程度の「おせっかい」は必要だと思います。それをして良いのは家族だからでしょう。そうやって「おせっかい」をすると、当然ながら自分の方にも責任が生じます。それを自分が引き受けていけるというのも家族だからなんです(他人への「おせっかい」責任を引き受けるのは勇気がいりますよ)。放任主義が往々にして無責任と同義になるのは、原理的に、責任の引き受け手のことを明示しないからです。放任した結果責任は全部自分が引き受ける、という態度を公言して初めて、放任主義は意味を持つ、と言い換えてもいいでしょう。でも、たいていの人はそんなことしません。いや、できませんよ。無限責任ですから。だから、褒める時も叱る時も、責任を負うことを恐れてはいけないんです。家族なんですから。


 ・・・ちょっと長くなってしまいました。続きは次回に。



0 件のコメント:

コメントを投稿